話すということ

言語が思考を規定するという有名なフレーズがある。これは否定されているものの、言語が思考に及ぼす影響は無視できないものがある。


自分の思考を自分で掴むことは難しい。思考にはもともと形がなくて、時系列でもなくて、論理的でもないから。あまりにも情報量が多すぎるネットワークのようなもので、これを全て保存しておくことは一部の天才的な人間を除いて不可能だと思う。


思考を言語というインターフェイスを通じて覗き見ることで、思考を時系列にそって把握したり、論理的整合性を検証したりすることができるようになる。言葉と言う記号の配列に変換することで、思考そのものの情報量を抑え、容易に思考を取り扱うことができるようになる。思考を頭の中や外に保存することができる。他社との対話によってその思考の欠点を指摘してもらい、より洗練させることも、この段階になってはじめてできるようになる。


言語化のプロセスは簡単ではない。思考をそのままの形で部分的に見つめ、適切な言葉に置き換えるのは、美術で言うクロッキーのようなものではないだろうか。観察対象の動きや形の特徴を最低限の線で素早く表現する。うまくやるには訓練が必要だ。そもそも情報量を減らしているわけだから、どれだけうまくなっても、完全に捉えきることはできない。


もし、自分の発した言葉を通して、その元となった思考の一部まで読み通す人が近くにいたなら、幸いなことだ。うまく捉えきれずに、うまく表現しきれなかった思考を、捉え直すように導いてくれる。自分の思考のインターフェイスをより適切に書き直すことで、自分自身の思考をより適切に意識することができる。


人と話すと言うことは、アイデンティティを認識するプロセスを含んでいるんだ。